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札幌いちご会 事務局

東京での山下正知(まさとも)氏の講演会 「重度しょうがいしゃの介護保障の起源~介護人派遣事業の成り立ちが重度訪問介護につながっている~」を聞いて、あらためて今の社会に必要なことは何かを考えた件            


<いちご通信204号(2019年5月号)より抜粋>

          

  元いちご会職員 金田博之(かねた ひろゆき)



前置き 

これは昨年9月25日、東京都多摩市の聖蹟桜ヶ丘で行われた

「全国公的介護保障要求者組合」の会合にて(対厚労省交渉の前日でした)、

元東京都福祉局障害福祉部在宅福祉課におられた山下正知氏(現全国盲ろう者協会事務局長)の講演を聴かせていただいての私的な感想です。

前号でお伝えしていた講演内容はこの感想にてお伝えいたします。(不安ですよね。)

 

はじめに             

『こんな夜更けにバナナかよ』という映画が大変話題を呼んでいる

(この原稿は2月頃に書いてます)ようで、この通信の読者の方にも映画を観られたり、

以前から原作本を読まれていた方もいらっしゃると思います。

心より感謝いたします。(私が言う事ではない)

こんな話から書き起こしているのは、「バナナ」の主人公である進行性筋ジストロフィーの鹿野靖明さん(元いちご会の会計担当)がわがままともいえる強烈な個性で地域の中で、

何百人ものボランティアの力を借り自立生活を成し遂げた時代と、

現在の在宅福祉の状況は「公的介護保障の充実」という点においては明らかに違っている(一応進んできている)からです。

しかし前号でも「声をあげなければ何も変わらない」と書かせていただいたように、

黙っていて障がい者のための福祉予算が増え続けたり、新たな制度が創設されるというような事は今も昔もこの国の財政方針の中ではほとんどあり得ない話です。

ましてや少数の人間のニーズ、たとえそれが基本的人権上欠くことのできないものだとしても、結局、より多くの一般国民や大企業等が関心を持つ、あえて皮肉な見方をすれば、

成果がより可視化できる(見えやすい)方が比較的予算というものは通りやすいというのが世の常です。

では鹿野さんのような長時間介護が必要な重度障がい者が病院や施設でなく自分が希望する地域での自立生活をするための公的介護保障は今、なぜあの時代より改善されていったのでしょうか。

もちろん時代の流れ、人権意識の向上という必然的な力も無視はできません。

しかしやはり一番大きかったのは障がい当事者の行政に対する声の大きさ、

熱量、粘り強い交渉の成果だったのではないかと思います。

今回山下さんが講演の中で丁寧に時系列に沿って話されたリアルな交渉の舞台

及びその舞台裏を聞くことが出来、やはり「黙っていては何も変わらない」

その思いを一層強くしました。

 




障がい者運動と公的介護保障

山下さんは1994年頃から東京都の障害福祉部におられて、「全身性重度障害者介護人派遣制度」という障がい当事者が介護者を推薦して各市町村に登録しそこから派遣するという現在で言うところのPA(パーソナルアシスタンス制度)に非常に近い方式が紆余曲折を経て、都内の当事者活動家、団体と、時には激しく対立し、時には一緒に頭を突き合わせながら全都で施行されていく過程に直接携わっていた担当者のお一人です。

現在障がい者運動の歴史を語る上で必ず登場するようなそうそうたる方々と直接膝を交えて交渉に当たり、しかもその交渉の過程には、その後かなりの時を経て2013年に国会で批准された「障害者権利条約」にうたわれた「政策決定及びその過程には当事者が積極的に関わり連携をとる必要がある」という基本的精神をまさに当時より実践されていた方だという事に深い感銘を受けました。

まず、私が障がい者運動の歴史を思い返すとき、必ず頭に浮かぶのは脳性マヒの当事者団体「青い芝の会」の「川崎バスジャック事件」「脳性マヒの子供を殺した母親に対する減刑嘆願運動を批判する運動」そして今回の重度障害者の公的介護保障につながっていく「府中療育センター移転阻止闘争闘争」等々の歴史的な事件です。

青い芝の会については当然山下さんも関わりを持っていますが、

今回は講演議題が「公的介護保障の起源」という事もあり「府中療育センター闘争」の経緯から講演はスタートしました。

(興味のある方は上記の他の運動についてもぜひ機会を見て調べてみてください)

1968年に開設された府中療育センターは私も1980年代後半に見学に行ったことがありますが、完成時、東洋一と言われただけあってとても大きな収容施設で、

私の見学当時は殆ど重身の方が入所生活をしていたように思います。

(昔の事なのでおぼろげな記憶ですが)余談ですが、石原慎太郎氏が都知事時代の1999年にここを視察し、その後の記者会見の中で「ああいう人って人格あるのかね」と発言し、

障がい者団体から激しい抗議が寄せられたという事件があった施設です。

 

話を元に戻します。府中療育センターは福祉施設でありながら当時、

民生局(今の福祉局)ではなく衛生局に属し、「病院」のような運営をしており、

現在の福祉の考えとはかけ離れたものであったため、「生活の場」としての発想の転換を要求し、三井(旧姓新田)絹子さんをはじめとした入所当事者の方々が大規模な抗議活動を起こし、1972年に都庁前にテントを張り、当事者の方と支援者の方が2年間にわたり座り込みを続け、都政のあり方そのものに抗議をしました。これが「府中療育園闘争」の概略です。

これは当時福祉の改革を旗印にしていた美濃部革新都政にとっては、

非常に重い課題となったという事です。

この時代は社会全体もかなり騒然とした時代でした。

 

公的介護保障の芽生え

そうした経緯もあり、美濃部東京都知事(当時)との直接対話がようやく実現し、

1974年、東京都が新たな施策を行なう事を条件に、座り込みはようやく終了しました。

その時に生まれたのが東京都の独自事業「東京都重度脳性麻痺者介護人派遣事業」(当時の呼称)でした。これは都が在宅の重度脳性マヒ者に「介護券」というクーポンを当初月4枚配り、障がい者が見つけた介護人にそれを渡し、介護人がそれを役所に持っていき換金するというものだったそうです。(1枚1750円とのこと)(金田註)ここでいう介護人とは何の資格もない民間ボランティアであり、介護料というのはいわゆる謝礼でした。

「在宅重度障がい者」という概念自体が当時はまだなかった時代で今のヘルパーに近いものでは「家庭奉仕員」という制度だけ、それも相談や助言・家事援助のみが仕事の内容でした。

つまり、ここで初めて「障がい者の総合的な在宅サービス」という発想が生まれたという事になります。

同じ時期に都単独事業として「重度心身障害者手当(重度手当)」が作られ、

この2つの事業が地域社会で自立した生活をめざす重度障がい者の生活をまだまだ少ないながらも支える柱となっていったそうです。

札幌市では冬季オリンピックが開かれ、街中が浮かれ、真駒内会場までの輸送手段として、札幌市に初めて地下鉄が開通したのが1972年。そんな頃の話ですね。

 

東京都と障がい当事者団体「全都在障会」(※1)とは毎年交渉を重ね、

派遣回数は月4回から5回・6回と徐々に増えていき、1986年に回数がついに月12回に達した時、さすがにこのままズルズルと1回ずつ増やしていくのは難しいと、財政サイドから厳しい意見が出てきたそうです。

そのため、その年以降からは月12回までは家族介護を併用している方を対象として固定化し、そこからの交渉は真に他人(家族以外)介護を必要としている方(いわゆる自立生活を送っている方)に限定して続けられ、その際に他人介護の対象者も脳性マヒ以外の重度者(ALS等の難病や頚椎損傷等の方)にも範囲を広げ1987年には「東京都重度脳性麻痺者等介護人派遣事業」という名称に改正されていきます。ここから制度の在り方について検討するプロジェクトチームが出来、山下さんもその中で中心的に関わっていくことになります。

そして5ヵ年計画で1993年ついに月30日のいわゆる毎日介護が実現したのです。

(時間は当然限定されたものでしたが)財政的に厳しい意見が出る中で、当事者、

財務局を巻き込んだ形で制度の改正を進めていくことは、並大抵のご苦労ではなかったかと思います。

ちなみに札幌いちご会は1990年に北海道難病連と連名で「全身性重度障害者介護料助成制度」(当時名称や方式は東京都とは異なっていた)の要望書を札幌市に提出、

試行事業をへて、翌年より実施されています。

 

制度再編に向けての検討と当事者の関わり

介護保障の要求が拡充されていく中で、東京都としては、国が1992年より始めた「障害者ホームヘルプ事業」を活用するという事を考えました。当然国の事業になると、

「公費を支出する制度」としての社会基盤もしっかりとしたものになり、

「介護券」がいわゆる「金券」のようなものとしてブラックマーケットに流出したりする危うさもなくなるからです。当事者側にもメリットはありました。

まず派遣単価も当時で1時間1400円にまで引き上げることが出来ること、また、国のホームヘルプ事業に組み込むことによって、この制度は全国どこの自治体でも実施できるようになるという事などです。

当然障がい当事者団体からは「国の制度を取り込むと様々な制約が出てきて、

当事者の主体性が損なわれ、制度の使い勝手が悪くなるのでは」という強い疑念が示されましたが、「制度の拡充をしていくための協議には応じる」という事でさらに論議は深められていったそうです。

 

そうした中で介護マンパワーをどうしていくか。

全身性という個別性の強い介護ニーズにどう対応するか。

その議論の中から、大枠として障がい者が個人的に介護人を確保する方式と、

派遣事業所から介護人を受ける方式の、二本立てを可能にするような制度設計が必要だという意見が当初出ていたそうです。

さらに自立生活センター(CIL)という当事者団体が直接派遣事業を行なうところも出てきて、これも全く別枠で検討されていくことになりました。

(これは後の「障害者参加型サービス事業」~都単独事業につながっていきます)この検討会には八王子ヒューマンケア協会の中西正司さん、町田ヒューマンケアの樋口恵子さん、DPIの三澤了さん等がおり、全身性介護人派遣事業の方の検討会には新田勲さん(※1)、三井絹子さん(※2)、練馬の派遣センターの荒木さん(※3)、木村英子さん(※4)等、両方の検討会にまたがっては立川の高橋修さん(※5)や田無(現西東京市)の益留さん(※6)、世田谷の横山さん(※7)らの当事者活動家(団体)たちがいました。~日本の障がい者運動の(ここでは主に東京都在住の方ですが)歴史について山下さんのお話を聞きながら、読者の皆さんにも「こういう先駆的な運動をされていた方々や団体がこの国の障がい者福祉を変えてきたんだ」という事を多少なりとも知っていただきたいと思い、ここではあえて山下さんのお話の中で登場した方々のお名前を列挙させていただきました。最後の注釈を参照いただければと思います。

 

全身性重度障害者介護人派遣事業の成立

こうして再編され生まれたのが「全身性障害者介護人派遣事業」です。

派遣単価は前述のように、ホームヘルプ制度と同等になりました。

東京都では介護人の資格についても、介護現場での経験という事を重視し、

ヘルパー資格や研修は奨励はするが強制はしないという方針で、入院時の介護も介護と看護は異なるという事で、病院側が拒否しなければ入ることが出来ました。

対象者は「特別障害者手当」の受給資格を持つ人、派遣時間は1日8時間、

月240時間でしたが、一般のホームヘルプサービス制度を併用できることとしました。

不満は出ましたが、最低保障からスタートという事でとにかく制度は動き始めました。

最終的な枠組みとしては、障がい者本人が介護者を推薦して各市町村に登録しそこから派遣するという方式になりました。呼び方もヘルパーとは区別する意味であえて「介護人」となりました。その際、候補としてアテンダントやパーソナルアシスタントという名称もすでに出ていたというお話に驚きました。山下さんはすでにここでセルフマネジメント~自らの介護人を管理するのが困難な全身性障がい者のエンパワメント(自らが持っている力を引き出すこと)を育てていく必要性にも言及されています。

行政的にはかなりの批判や障がい者側に譲歩し過ぎているとの意見を受けたという事も山下さんはおっしゃっていますが、こうした意見を押し通すためには、

そこに至る過程に基本的に当事者とのかなりの真剣勝負的な厳しさや激しい対立を積み重ねて来たという自負があったからこそ、そうした声を押し切ることが出来たとの事です。

やはりここには当事者と行政の腹を割った真剣な話し合いが制度を作っていくときには必要不可欠であるという事を強く感じました。

 

全身性重度障害者介護人派遣制度から重度訪問介護へ

福祉の流れを大きく見ていくと、2000年に「介護保険」法が成立し高齢化社会に向けての地ならしが始まり、そのためのマンパワー確保のために民間参入を促す必要が生じ、

派遣単価も大きく引き上げられました。

しかし、そもそも介護保険のホームヘルプサービスは高齢者のいる家庭での家族の負担軽減という色合いが濃かったため、極めて短時間の派遣というものがベースにあり、

在宅重度障がい者の長時間の見守りというものとはかけ離れた考え方であり、

全身性の単価は据え置かれました。そして2003年、障がい者の支援費制度がスタート、

この時全身性重度障害者介護人派遣制度は「日常生活支援」という枠組みの中に取り込まれ、さらに民間の派遣事業所からのヘルパー派遣というものが介護保険以来の流れの中で確立してしまい、従来の介助体制は大きく変わっていきました。

そして2006年の障害者自立支援法になると、全身性は重度訪問介護という形になり現在の枠組みが固まりました。政権交代時に制度見直しのための「総合福祉部会」が出来、そこでは重度訪問介護からパーソナルアシスタンス制度案も出されたそうですが、最終的にはひっくり返され、自立支援法の一部改正のみで2013年に障害者総合支援法は施行されました。この時パーソナルアシスタンス的な考え方は一切無視され、消えてしまったそうです。(重度訪問介護の中に重度の知的、精神障がいが含まれるという事にはなりましたが)

ここまでが東京都の全身性重度障害者介護人派遣制度が全国に広がり、まず日常生活支援になり、重度訪問介護という現在の制度になっていった、という流れです。

 

最後に

山下さんは今後の障がい福祉は介護保険法との将来的な統合が視野に入っており、

そこで生まれる「社会保険」という性質のものは一律、定型的な発想から成り立っているので、重度障がい者の個別なサービス・ニーズに応えられるようには設計されづらく、

また、行政の現場においても区市町村の福祉制度を全く知らないような担当者が交代して業務を引き継いでいく傾向にあり、当事者との共同作業がやりづらくなってきている現状がある事を指摘されています。

だからより一層、これまでの当事者運動の中で獲得してきた「重度訪問介護」は今一度当事者と行政のパートナーシップにおいて当事者(ユーザー)が物を言っていく必要があり、

一度原点に立ち返るべきであると最後に提言されています。

私たちの現代の社会は障がいの有無にかかわらず、多様化、個別化していく一方で、

十分な論議のないまま様々な法律やシステムがどんどん構築されてきています。

ここで「自己選択、自己決定の尊重」、「当事者と行政との風通しの良いパートナーシップ」の必要性は今だからこそより重要になってきているのかもしれません。

行政側も今回講演をいただいた山下さんのような福祉のエキスパートが必要なのではないでしょうか。障がいを考えることはすべての生活者の福祉の向上につながっていくという原則に立ってこの問題を考えていく必要があるという事をあらためて認識させられました。

講演を聞く機会を今回与えられたことに感謝したいと思います。

 

※1中西正司(敬称略・以下同じ)~日本初の自立生活センター八王子「ヒューマンケ

ア協会」設立者。DPI日本会議議長などを歴任。日本の障害者運動のリーダー的

存在。

※2樋口恵子~町田ヒューマンネットワーク創設者。全国自立生活センター協議会

(JIL)副代表。町田市議会議員などを歴任。

※3(故)三澤了~DPI日本会議事務局長を経て、2004年DPI日本会議議長就任。

2013年没。現在、本人の遺志を継ぎ次世代障害者リーダー育成のための

「三澤了基金」が設立されている。

※4(故)新田勲~全国公的介護保障要求者組合・全都在障会初代委員長。

※5三井絹子~現「全国公的介護保障要求者組合」委員長、新田勲氏は兄。

※6(故)荒木義昭~練馬区介護人派遣センタ―代表、障がい者の運転免許受験拒否に対し60~70年代「荒木裁判闘争」を起こす。

※7木村英子~現「全都在障会」代表。

※8(故)高橋修~自立生活センター立川創設

者。民間任意団体では全国初の心身障害者(児)ホームヘルパー派遣事業受託団体として発足。他の団体の設立にも積極的に関わる。

※9益留俊樹~NPO法人「自立生活企画」(西東京市)代表。

※10横山晃久~自立生活センターHANDS世田谷理事長。


 


 

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